1987〜90年 (事務局長:高橋巧一)

幅広く学生が集まり大学の枠を超えた、ということでこの辺りが、大学内でのサークル活動からネットワークとしてのF.A.Nに広がった時期といえるだろう。
FA設立時に各大学のサークルに呼びかけた、そのネットワークを生かして次に出来ることをやろう、ということになった。出だしはイベント中心で、それにプラスして春、夏休みのウトナイ・鶴居ボランティアを行っていた。バードソンが大成功を収め、学生たちが集まればすごいものが出来る、ということを見事示した。これを一回のイベントで終わらせてしまうのはもったいない。みんな自然保護の意識を持っているのだから。そこで、バードソンで知り合った学生らを更にウトナイへと連れて行ったりしてネットワークを築いた。大学の枠を超えて横の広がりを持てるようにFANをつくった。初期の「FAを作ろう」の雰囲気が継続していた。

89年には野鳥の会主催のバードソンに戻ったため、F.A.Nとして何かおもしろいことが出来ないかと考えるようになった。そして、ネイチャーハントやFANパーティーなどのイベントを多数行った。このようなイベントは、広く大学生のネットワークをつくるのに役立った。高橋自身、同じことは繰り返したくない、という一発打ち上げ花火型のイベントが好きだった。F.A.Nのネットワークを使ってさらに学生たちに深く保全にかかわってもらうために、彼らを北海道へと引き連れていった。イベントはワークキャンプへのつなぎの役割もあったのである。実際、片山、瀬古の頃はワークキャンプをメインとした本来のボランティア活動に集中できる環境を形作って行ったようである。

関係者のベクトルを合わせる場としてFATC‐spを行い、いい所、問題点を出し合っ
て方向性を決めた。コミュニケーションをとるには、お酒を飲んでアイディアを出すのが一番。また、FAに関わる人は、高い意識を持っている人たちが集まっているので、特に問題点は無かった。
しかし、恋愛感情が絡んでくると。。。

●事務局長として

事務局長によって、F.A.Nの活動は異なってくる。そして、高橋は、新しいことが好きなので、イベントを積極的に行った。
高橋自身としては、鶴居ワークキャンプの影響が大きかった。活動をガンガン進め、鶴居サンクチュアリに学生をどんどん送り込んだ。

「学生が自然保護の現場にかかわることで、その知識やレヴェルをあげてほしい。もちろん就職先は様々だが、そのつながりは切らしてしまうべきではない。OB,OGは旅行会社やメディア関係、NGOや行政など幅広く進出している。それぞれのセクションの方々と、底辺の学生が協力していけば日本の自然保護を引っ張っていけるはずだ。」


1990〜94年(事務局長:勝田信明)
この時期は、
 ・具体的活動
 ・成果
 ・PR
 ・(学生だからこそ)新しいも

の4つを満たしたイベントを行ってきた。これらは、FANパーティー、ネイチャーハントなどに共通する。

当時のメンバーは、

スタッフが30名程度。各イベントの準備には15〜20名が携っていた。当時、HPはなかったので、サークルつながりのツテで入って来る人ばかりだった。また、各イベントでF.A.Nをアピールしてメンバーを増やそうとしていた。

当時の活動は、

バードソンがこじんまりとしていて、ネイチャーハントを大々的に行っていた。ワークキャンプが始まるまでは、時期を限定せずに長い期間でボランティアをしていた。当時の活動には、ネイチャーハント、FANパーティー、ラムサール会議出席、光が丘、FATW、FUN&FANなどがある。

時目指していたものは
自然保護を学生だけでやっていることのPRをすること。多くの人に知って参加してもらいたい、新たなつながりを作りたい、と考えていた。学生でもいろいろな関わり方ができる。だから、学生だけで具体的な活動をしたいと思っていた。

事務局長としての想い

人とのつながり、いろんな出会いがあった。その中心に自分がいられたことが大きい。学生だけではなくていろんな立場の人と話せた。学生だということで相手がこちらに下がってきてくれた。今でも社会人の人とつながっている。
事務局長は大変で、ぎっしり詰まったスケジュール帳は勲章だった。
今活動している人たちへ:親は理解者の一人だから、充実していることをきちんと伝えて味方にしてください。


1995〜97年(事務局長:瀬古智貫)

94年はFAの中の大きな転換期だった。
94,95年での変化の盛り上がりが96,97年に安定してくる。
 ・光が丘での活動は継続。
 ・鶴居ワークキャンプは94年のレンジャー交代に伴って一時休止。97年より再開。

 ・ウトナイWCは95年春から開始。
 ・キナシWCは94年開始。
 ・バードソンは94年からNECの協賛が始まる。
 ・谷津干潟での活動が94年から始まる。

このように、94年前後にF.A.Nの活動に変化が起こる。それまでのイベント重視から、落ち着いてフィールドでボランティアを継続するようになってきた。

また、このころから学生の雰囲気が変わり、初期の「FAを作ろう」の雰囲気がなくなってきた。それまでは動物好き・生物好きでまじめなノリ(きちっと手順を踏んで、という考え方)だったのが、自分たち学生で楽しんでやっているよ、という雰囲気になってきたのだった。



1998〜99年(事務局長:掛下尚一郎)

基本的にはワークキャンプ、バードソン、谷津干潟の3つの活動をしっかりと次の世代へとまわし、乗せられるようにして行こうという「つなぎ」の時期だったと掛下は語る。

正直、東京にいるスタッフが少ない中で、活動を広げようと思ってもなかなか広げられないもどかしさもあった。新たなイベントなどを企画段階から実施することは難しかったのだ。だが、アンテナはしっかりと立てていた。実際に、そのような状況であるにもかかわらず、ネットワークの輪をさらに広げようとする試みも数多く行われた。

98年3月に光が丘の活動が終了した。 98年4月には広報用のHPを立ち上げた。当時は小さなモバイルのようなものをワークキャンプに持って行ったり、パソコンのない事務局スタッフに貸し出したりしていた。
乙丸(青森)や中西(北海道)などの地方スタッフが誕生した。

当時の他団体との交流

98、99年頃、1年半〜2年ほどキャッツという団体と交流があった。キャッツとは「横浜・金沢地域総合研究集団」を正式名称とした、横浜市立大などの大学生が中心となっている“街づくり”を考える団体である。自然保護の分野にも関心があったようで、金沢八景の干潟などもフィールドとしていた。交流内容としては、お互いの活動紹介をしあう合同合宿や、相手のフィールドの視察(谷津や光が丘に参加してもらったことも)、イヴェントなどの情報交換を主に行っていた。その後、関係は自然消滅。・   エコリーグから交流イヴェントにパネラーとして参加してくれないか、とのオファーがあったこともある。これには学生ではなくFAの社会人が参加した。
また、他団体のイヴェント『干潟を守る日』に参加。ブースにて子供参加型のアクティビティを実施した。
シンポジウムのボランティアへの参加も盛ん。特に多かったのは三番瀬干潟のシンポジウム。
 池袋のアウトドアフェスティバルにバードソンの宣伝のため、ブースを出したこともあった。


2000年(事務局長:松井美奈さん)

2000年はどんな時期?

2000年は、光が丘での活動が終了し、これからどうしようか考えていた時期であり、FAのメンバーのつながりで新しい活動を模索していた時期であった。
確立した定期的な活動がなかったので、個人のつながりで様々な活動をしていた。

事務局長の松井が舞岡、小日向が谷津干潟、吉田秀が内川、吉田秀と長谷川が大師高校を主に担当していた。

2000年の出来事は・・・

光が丘終了〜バードソン募金先変更〜霧多布自然観察会〜霧多布ワークキャンプ
・2000年3月(1999年度)に光が丘の活動終了。
・バードソンが一段落し、光が丘の活動も終了したので、東京で何かやりたい!という声が出てきた。

東京での活動場所を探した理由

こちらで活動する場所が欲しかった。ワークキャンプ終了後も活動したいという意識の高い人が活動していく場が欲しかった。

このころFAに関わった人たちは?

千葉大の人が多かった。
フロムエーでWC参加者を募集した。
HPからの応募も増え始めた。

●事務局長として

松井さんはFA初の女性事務局長だった。事務局長を務めての感想は、
「やりたいと思うことをやっていた。事務局長という意識はあまりなかった。」
そうだ。
また、苦労したことは、
・人が少ないこと(スタッフが5,6人だったのでWCやSBを運営するのが大変で仕事が多かった)
・事務局がなくなって不便だった。
ことだそう。