FATW・FATC 

Field Assistant Training Works と Field Assistant Training Camp

FATW・FATCはF.A.N設立当初から行っている。FATCは1泊ないし2泊で自然環境に恵まれたセミナーハウスなどの施設に泊まりこんで行う、学生対象のプログラムの一つである。基本的には、自然保護に関する知識や技術とともに、発想力、構想力、チームワーク、リーダーシップなどの人間共育に関するものまで互いに学びあい、そこで成果(イベント、プログラムなど)を生み出すことを目的とした新しいかたちのキャンプである。FATWはその日帰り型のワークショップである。

86年。キープ清里サンクチュアリで開催された
レンジャートレーニングキャンプに参加。
FATCのヒントとなった。
87年秋。FATCin西原。第3回目のFATC。
第1回目のFATCは、86年秋に開催される。
主催は日大自然保護研究会野鳥保護チーム。
FAという名称は、この時生まれた。
90年秋。FATCin葉山。日大セミナーハウスで
開催された。
98年2月。FATC-S。よみうりランドにて。
台風直後の開催。どうもFATC-Sは天気が悪い。

ラムサール釧路会議   

学生でも参加できることを示したい
国際会議はどんなふうに行われるのか見に行こう
1993年6月に釧路で行われたラムサール会議に、F.A.Nから16人もが参加した。事務所の手伝いをしたりエクスカーションにも行ったりした。
初めて参加した国際会議は何もかもが新しく、刺激的で、おもしろいけど難しい、強烈な体験だった。

また、96年にはオーストラリアのブリスベンで行われた、ラムサールブリスベン会議にも、FAをNGO登録して参加した。ポスターで日本の自然保護を説明したりした。

自然保護がどのように進むのか、舞台裏の事情を勉強・体験すること、学生主体のグループである自分たちが国際舞台でどう評価されるか・何ができるか試すことF.A.Nの活動を整理・再確認すること、を目的としてして参加した。


FUN&FAN  

F.A.Nの情報誌。
先々号までは冊子で発行されていたが、時代の流れとともに先号からオンライン版になった。これまでの特集は、バードソン特集・ワークキャンプヒストリー・光ヶ丘特集・ラムサーる会議号など、毎回特集を組むとともに、ボランティア情報も載せていた。
FAのことを皆に知ってもらいたい、参加を呼びかけること、活動の成果を記録することがFUN&FANの使命である。
発行当初から再生紙(当時はまだ少ない)を使用するなど、工夫とこだわりを持っていた。イラストを描いていた人の中には現在プロの漫画家になった人もいる!!

人にものを伝えるのは大変。顔の見えない相手に対しては尚更大変。思いを伝える難しさ、編集の大変さを知った。(もと編集者談)


内川 

大田区を流れる内川。一見普通の都市河川だが、実は2面張り(コンクリート3面張りとは違い、川底は自然のまま)だったり、抜気装置(酸素を水に送り込む)があったり、と生態系を守る工夫がなされており、生き物が多い。

活動開始当時、F.A.Nの先輩と「内川をよみがえらせる会」の増田さんにつながりがあり、大田区の内川で何かできないか、という話になった。
光ヶ丘での活動が終了したので、今後の東京でのフィールドとして内川をメインにやっていこう、ということになり、内川で何をするかを考え始めた。

まずは内川の自然を知ろう!ということで、増田さんに聞いたり、調べたり、歩いたりし
て、内川自然情報マップを作成した。
その他にも調査のお手伝いを行ったりして増田さんと仲良くなった。

現在、増田さんとのつながりでリトルターンプロジェクトに活動が移行している。



舞岡公園 

神奈川県戸塚にある、谷戸を公園化した公園。ボランティアにより田んぼが運営されていて、収穫したお米で餅つきを行ったりしている。片山が個人的につながりを持っており、一年ほど活動した。



大師高校 

神奈川県川崎にある高校で、戸塚の舞岡公園で活動している。中村先生という方が環境教育をしており、興味のある子がいるから何かやらないか、と誘われた。スライド
を用いてワークキャンプや学生バードソンの説明をしていた。学生バードソンには実際に高校生チームとして参加した。


事務局 

以前はF.A.Nには事務局があった。世田谷区にアパートを借りていて、ミーティングやイベントの準備、資料置き場にしていた。忙しい人が多い時期にはミーティングが深夜開始となり、泊まりこんで語りこむこともしばしばあった。

99年に事務局を終了したのは、パソコン通信とインターネットの普及により、会わずにコミュニケーションが取れるようになったからである。スタッフや関係者が全国(青森、広島など)規模でいるようになったことも大きい。高い事務局代と光熱費を払うより(光ヶ丘の活動が終了し、収入源もなかった)、FATCのような活動にお金を使用し、学生の負担を軽くするほうが良いと考えた。

事務局があるころは週一でミーティングしていたが、事務局終了後、ミーティング場所に困るようになった。経堂地区会館、新宿の喫茶店などを利用した。そのうち、星野が横浜県民サポートセンター(通称県サポ)を見つけ、01年くらいからミーティングを県サポで行うようになる。

現在、郵便物は代表の高橋もしくは、イベントごとの担当者に送ってもらっている。事務局電話は松井の代(2000年)から携帯になった。携帯のなまえは「事務局くん」らしい。

91年。FANの事務局でネイチャーハントの準備中。